バスティーユ牢獄跡は今どうなっている?歴史的背景から現在の広場・記念碑まで!

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「フランス革命の舞台となったバスティーユ牢獄は、今どうなっているの?」
「現地に何か痕跡は残っているのかな?」

そんな疑問をお持ちの方に向けて、この記事ではバスティーユ牢獄跡の現在の姿をご紹介します。

かつて牢獄があった場所は、バスティーユ広場として生まれ変わり、7月の塔などの記念碑が建っています。

歴史的背景から現在の観光スポット、アクセス方法まで詳しく解説していきますので、パリ旅行を計画中の方はぜひ最後までお読みください。

バスティーユはどこにある?

バスティーユ広場は、パリ中心部の東側にあります。メトロ3路線が通るアクセスの良い場所で、かつてバスティーユ牢獄があった跡地です。

まずは、広場の立地やアクセス方法について詳しく見ていきましょう。

バスティーユ広場の位置とアクセス方法

パリ中心部の東側、セーヌ川右岸に位置するバスティーユ広場。マレ地区とベルシー地区の間にあり、ルーヴル美術館からは徒歩20分ほどでアクセスできます。

最寄りのメトロ駅は、Bastille(バスティーユ)駅です。1号線、5号線、8号線の3路線が通っており、シャンゼリゼ通りやオペラ座、カルチェ・ラタンなど、パリ市内の主要スポットへ乗り換えなしで行けます。

駅を出ればすぐ広場が見えるので、迷う心配もありません。セーヌ川沿いを散歩しながら向かうのもおすすめです。

周辺の主要なランドマーク

バスティーユ広場の周りには、パリの魅力を感じられるスポットがたくさんあります。

広場の東側には、現代的なデザインが印象的なバスティーユ・オペラ座。西側へ進むと、17世紀建造のサン・ポール・サン・ルイ教会や、石畳の路地が続くマレ地区が広がっています。

南側にはセーヌ川が流れ、対岸にベルシー公園を望めます。

少し足を延ばせば、貴族の邸宅が残るクール・ダモアや賑やかなマルシェもあり、歴史と現代のパリ文化が交わるエリアです。

バスティーユ要塞・牢獄の歴史

バスティーユは14世紀に軍事要塞として建設され、その後国王の牢獄へと変わっていきました。

要塞から牢獄への変化、収監された著名な囚人たち、「鉄仮面の男」の伝説など、興味深い歴史を見ていきましょう。

14世紀の要塞建設から始まった歴史

バスティーユは1370年代、パリを守る軍事要塞として建てられました。

当時のフランス国王シャルル5世が、百年戦争でイングランド軍の脅威にさらされていたパリ東側の防衛を強化するため、サン・タントワーヌ門の建設を命じたのです。

8つの塔が高さ24メートルまでそびえる堅固な石造りの要塞で、周囲には深い堀が掘られていました。建設された当初は軍事施設としてパリ東側の守りを固める拠点でした。

要塞から国王の牢獄へと変わった経緯

17世紀に入ると、バスティーユは軍事要塞から国王専用の牢獄へと姿を変えていきます。

絶対王政を強めたいルイ13世やルイ14世が、政治的な反対者を投獄する場所として使い始めたためです。

国王の署名入り勅令状があれば裁判なしで投獄できる仕組みで、主に王政に批判的な貴族や知識人、作家などが収監されていました。

こうして次第に「専制政治の象徴」として、民衆から恐れられる存在になっていきます。

収監されていた著名な囚人たち

バスティーユには、後世に名を残す文化人や貴族が数多く投獄されていました。

啓蒙思想家のヴォルテールは若い頃に2度投獄され、獄中で戯曲を執筆しています。

『悪徳の栄え』で知られる作家サド侯爵も、風紀を乱したとして13年間収監されました。

その他にも財務総監を務めたニコラ・フーケなど、王の怒りを買った人々が相次いで投獄されました。政治的・思想的な理由で収監される人物が大半を占める牢獄だったのです。

「鉄仮面の男」の伝説とバスティーユ

バスティーユには「鉄仮面の男」という謎に包まれた囚人の伝説があります。

1698年から1703年まで収監されていたこの人物は、常に仮面で顔を覆っていたと伝えられています。

ルイ14世の双子の兄弟説や重臣の隠し子説など、さまざまな憶測が飛び交いました。実際には黒いビロードの仮面だったという記録もありますが、正体は今も謎のまま。

この不思議な囚人の存在は、後に小説や映画の題材となり、バスティーユに神秘的なイメージを与えています。

バスティーユ牢獄襲撃事件とは?

バスティーユ牢獄襲撃事件は、1789年7月14日にパリ市民が起こした歴史的な出来事です。

この事件がフランス革命の始まりとなり、現在も7月14日は革命記念日として祝われています。

襲撃事件の詳細と、その後の展開について見ていきましょう。

襲撃事件の背景と1789年7月14日の出来事

18世紀末のフランスでは、戦争や凶作で財政が破綻し、民衆の生活は困窮していました。

国王ルイ16世は税制改革を試みますが、特権階級の抵抗により失敗に終わります。

1789年5月に三部会が開かれると、平民代表たちは自ら国民議会を結成。国王がこれを武力で解散させようとしたことで、民衆の怒りが爆発しました。

そして7月14日、武器と弾薬を求めたパリ市民がバスティーユ牢獄へ向かいます。

午後には守備隊との交渉が決裂し、激しい戦闘に発展。市民側には約100名の犠牲者が出ましたが、最終的に守備隊が降伏し、牢獄は陥落します。

牢獄内の囚人はわずか7名でしたが、王権に対する民衆の勝利として、この出来事はパリ中に広まっていきました。

襲撃後の牢獄解体と石材の行方

襲撃の翌日から、バスティーユ牢獄の解体作業が始まりました。

パリ市は事業家に解体工事を委託し、1789年7月15日から作業が開始。翌年11月まで続いた解体により、牢獄は完全に取り壊されました。

石材の多くはセーヌ川にかかるコンコルド橋の建設に使われたと伝えられています。

また、一部は革命の記念品として各地に配られ、今も自治体や記念館に保管されているものもあるそうです。

現在のバスティーユ広場に建物は残っていませんが、地面に描かれた輪郭線で、かつての牢獄の位置を確認できます。

7月14日が革命記念日になった理由

7月14日は革命記念日として、フランスで最も大切な祝日になっています。

バスティーユ牢獄襲撃は、民衆が王権に勝利した象徴的な出来事でした。この日を記念して、1880年に正式な祝日として制定されたのです。

フランスではパリ祭とも呼ばれ、毎年盛大なお祝いが開かれます。シャンゼリゼ通りでは軍事パレードが行われ、夜にはエッフェル塔周辺で美しい花火が打ち上がります。

バスティーユ広場でも音楽イベントやダンスパーティーが開かれ、多くの人で賑わう一日となります。現在も自由と共和制の理念を祝う大切な日となっています。

バスティーユ牢獄は現在「バスティーユ広場」に

かつて革命の象徴だったバスティーユ牢獄は、建物は取り壊されましたが、広場の地面や地下には当時を偲ばせる痕跡が残されています。

現在の広場の様子と、わずかに残る歴史の名残をご紹介します。

牢獄跡地に広がる現在のバスティーユ広場

バスティーユ牢獄があった場所は、今ではバスティーユ広場として生まれ変わっています。

1789年の襲撃後、牢獄は完全に取り壊され、その石材はセーヌ川にかかるコンコルド橋などの建設に使われました。

跡地は長い年月をかけて整備され、現在は円形の大きな広場となり、中央には7月の塔と呼ばれる記念碑が建っています。

広場周辺にはカフェやレストランが立ち並び、地元のパリジャンや観光客で賑わう場所に。週末にはマルシェも開かれ、新鮮な食材や花を求める人々で混雑します。

オペラ座や港へ続く道もあり、散策の起点としても最適です。

かつての暗い牢獄のイメージとは対照的に、明るく開放的な空間が広がっています。

広場に残るバスティーユ牢獄の痕跡

バスティーユ牢獄の建物は残っていませんが、わずかな痕跡を見ることができます。

まず、メトロ5号線のバスティーユ駅構内には、広場の地下工事中に発見された牢獄の石壁の一部が保存展示されています。

地上を歩いているだけでは気づきにくいですが、足元の地下には歴史の名残が残されています。

また、広場の地面をよく見ると、かつて牢獄があった位置を示す目印が施されています。

舗装された地面には、牢獄の外壁があった場所に沿って、異なる色の石材やプレートが埋め込まれているのです。

この輪郭線をたどると、8つの塔を持つ要塞がどれほど巨大だったかを実感できます。訪れた際にはぜひメトロ駅構内と地面の輪郭線、両方をチェックしてみてください。

バスティーユ広場にある「7月の塔」とは

バスティーユ広場で最も目を引くのが、中央に建つ高さ52メートルの7月の塔です。

1830年の7月革命を記念して建設されたこの記念碑は、頂上の金色に輝く自由の精霊像が特徴的。

建設の経緯や塔の特徴、見どころをご紹介します。

7月革命を記念した高さ52メートルの記念碑

7月の塔は、1830年の7月革命を記念して建てられた高さ52メートルの青銅製円柱です。

1830年7月、専制的な政治を行っていたシャルル10世に対して民衆が蜂起し、わずか3日間の戦いで王政を打倒しました。

この革命で命を落とした504名を追悼するため、1840年から1841年にかけて建設されたもの。塔の内部地下には犠牲者の遺体が安置されています。

円柱の表面には7月革命で戦った戦士たちの名前が刻まれ、基壇部分には獅子の彫刻やレリーフが飾られています。

塔全体はブロンズ色の落ち着いた色調ですが、頂上にある自由の精霊像だけは金色に輝き、バスティーユ広場のどこからでも見える存在感を放っているのです。

塔の頂上に立つ「自由の精霊」像

塔の頂上には金色に輝く自由の精霊像が設置され、右手には松明、左手には鎖を持った姿で立っています。

彫刻家オーギュスト・デュモンによる高さ4メートルの作品で、金箔で覆われた像は太陽の光を受けてまぶしく輝き、パリの空に自由の灯火をかかげ続けています。

右手の松明は希望の光を、左手の壊れた鎖は専制からの解放を意味しており、フランス革命の理念を視覚的に表現した像です。

7月の塔の見どころと撮影スポット

7月の塔を鑑賞する際は、広場の周囲から塔全体を見上げる構図がおすすめです。

特に晴れた日には青空と金色の像のコントラストが美しく、写真映えする一枚に。夜間はライトアップされ、昼間とは異なる幻想的な雰囲気を楽しめます。

広場の東側から撮影すると、背景にオペラ・バスティーユも一緒に収められるでしょう。

塔の周囲にはベンチもあるため、ぜひゆっくり座ってフランスの歴史に思いを馳せてみてください。

バスティーユ広場周辺のスポット

バスティーユ広場の周辺には、歴史と現代が融合した魅力的なスポットがたくさんあります。

現代建築のオペラ座やバロック様式の教会、活気あふれるマルシェなど、見どころ満載です。

それぞれご紹介していきましょう。

バスティーユ・オペラ座(オペラ・バスティーユ)

広場の東側には、ガラス張りの外観が目を引くオペラ・バスティーユが建っています。

1989年にフランス革命200周年を記念して開業したこのオペラハウスは、2700席を誇る大規模な劇場。

パリ・オペラ座のもう一つの拠点として、バレエやオペラの公演が定期的に開催されています。

クラシカルなガルニエ宮とは対照的な現代建築が魅力です。広場から徒歩1分とアクセスも良く、外観を眺めるだけでも楽しめます。

サン・ポール・サン・ルイ教会

広場から南西へ徒歩10分ほどの場所に、バロック様式のサン・ポール・サン・ルイ教会があります。

17世紀に建てられたこの教会は、イエズス会の教会として栄えました。

ドーム型の屋根と白を基調とした内部装飾が特徴。教会内部には美しいフレスコ画や彫刻が施されており、無料で見学できます。

静かで荘厳な雰囲気が漂う空間で、バスティーユ観光の合間にゆっくり過ごせるスポットです。

クール・ダモア(旧貴族の邸宅街)

バスティーユ広場から西へ進むと、隠れ家のような雰囲気のクール・ダモアに辿り着きます。

かつて貴族の邸宅が並んでいたこのエリアは、今では職人工房やアートギャラリー、おしゃれなカフェが集まる文化的なスポットです。

石畳の中庭を囲むように建物が配置されており、パリの喧騒から離れた静かな空間が広がっています。

手作り雑貨やアンティークを扱うショップも点在しているので、散策しながら掘り出し物を探せます。

バスティーユ広場のマルシェ(木曜・日曜開催)

バスティーユ広場では毎週木曜日と日曜日の午前中に、活気あふれるマルシェが開かれます。

リシャール・ルノワール大通り沿いに広がるこの市場には、新鮮な野菜や果物、チーズ、パンなどが並びます。

地元のパリジャンも買い物に訪れる、生活感あふれる雰囲気が魅力的。試食をさせてくれる店も多く、フランスの食文化に触れられます。

朝8時頃から13時頃まで営業しているので、早めの時間帯がおすすめです。

バスティーユ港とセーヌ川沿いの散策路

広場の南東側には、サン・マルタン運河に面したバスティーユ港があり、のんびりとした散策を楽しめます。

運河沿いにはボートハーバーが整備されており、クルーズ船が停泊する光景を眺めながら歩けるのが魅力。

カフェやレストランのテラス席も並んでいます。

運河沿いの遊歩道は緑も豊かで、都会の中心にいながら開放的な気分を味わえるスポットです。バスティーユ観光の締めくくりにぴったりの場所です。

まとめ

この記事では、バスティーユ牢獄跡の現在の姿と歴史的背景について解説してきました。

フランス革命の象徴であったバスティーユ牢獄は、今ではバスティーユ広場として多くの人々が集う場所に生まれ変わっています。

かつての牢獄建物は残っていませんが、地面に描かれた輪郭線や7月の塔を通じて、革命の記憶は大切に受け継がれています。

広場の周辺には、オペラ座やマルシェ、歴史ある教会など見どころが豊富にあります。フランスの歴史と現代の暮らしが交わるこの場所では、特別な雰囲気を感じられるでしょう。

この記事を参考に、ぜひパリ旅行の際にはバスティーユ広場を訪れてみてくださいね!

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